昭和46年06月18日 月次祭
「どちらが好きと問われたら、どちらも好きと答えけり」と。小学校の一年生になったばかりの子供がそういう詩を作ったという事をいつか新聞で見たことがあります。「あんた、お父さんとお母さんどっちが好きね」と、でどっちでも好きだと言うたという訳なんです。なるほど、お父さんは厳しいもの、お母さんは優しいもの、やはり優しいからお母さんが好き。けれども厳しいけれども、やはりお父さんも好きだと。
私は、信心をさせて頂いたら、本当に信心が分ると言う事、まあ天地の親神様が私共に、様々な働きをもって、より育てて下さろう、より大きなおかげを下さろうとする働きがこのお母さんの働きとも思われるような、それこそなでたりさすったりと言う様なおかげを下さるかと思うと、また信心しておってどうしてこんな事になってくるだろうかと思うほどの厳しさをもって私共に向って下さる。その両面があるのです。ですからその両面が分かった時が本当の事が分ったという事になる。
昨日、ある参拝なさったご婦人の方がそれとよく似た事をお届けされる。本当にきさくないいお方ですが、最近、まあ、大変都合の良い嬉しい事が起こった。それでねもうとにかくうちはらが良かった、ふが良かったと言うてその喜びよったらお父さんがね、「お前ばかりは馬鹿だから」。散った良かったっちゃ、ちと悪か悪かち言わなきゃ、他所の人までが悪い。(笑い)ね。「くやまにゃいかんち、お前馬鹿じゃから、こんなもん。良かち思うたらすぐに誰にもかれにも良か良かち言うちから」ち言うちから。
それからお母さんがね、日頃3べんも4べんもお参りしてお話聞かれますから、それこそもうなんでも、金光様の先生は喜べ喜べとおっしゃるから、喜ばして頂きよった。そいから、とうとう、まあ大人しいご主人だそうですけれども、そういう事からその、夫婦喧嘩になってね、もう出て行けと言われる。俺は出て行かん、お前が出て行けってもう両方が(笑い)、もう危ないところでご自身が追い出されるというところになった時に、子供っち良かもんですね、子供が仲裁に入ったね。
今日は○○さん、私が(よかごとっちゃなるかみおとりがきかんの)、おっかさんが悪かなら、おっかさん何時でん出て行くばのっちからもうね。お父さんとお母さんがどっちがええのち言うたげなら、そげな事ばね、子供に聞くごとある野暮な親があるのっち、お母さんとお父さんどっちげん良かくさいちから(笑い)、まあ言うたっちゅう話をされるです。だからそのあながちですね、そのああこの方の道は有難い有難いみちじゃから有難い有難いちから、あんまりに言うとですね。
これが信心ない者が聞きよると、お前馬鹿じゃけんと言う事になってくるんですけれども、その馬鹿じゃけんと言われたところをです、はあ有り難うございますと受けていかなければだめなんです。もうねこの事だけは本当にもう、正直に有難や有難やち言いよったけれどね、主人が「お前馬鹿じゃな」とかですね、「ちいとは駆引きちゅうもんがあるぞ」と、「近所の方がどげん思うか。よっぽど良かごとしとるごとある」。
ちいとはくやまなにゃそげん時には、駆引きちゅうのがあるち言うてから、ご主人はまあもっともらしい言われた。奥さんは時々お参りするもんじゃから、やっぱりねしたらもう、とにかく腹のないお方ですから、もうはあ私にゃふが良かったというごとってから、あんまりそげん喜ばっしゃるもんじゃから主人が腹かかっしゃった。だからそこまでは有難いけれども、お前は馬鹿じゃないかと言われたところからですね、私はそう言う所を有り難く受けていくという信心が、私は本当な信心だと思うですね。
すると夫婦喧嘩にならんですむね。だから半分ばっかりは有難かったけれども、後に馬鹿っち言われたので腹が立ったと、とうとうお前が出ていけちゅうことになってしまった。話聞かせてもらって(笑い)、漫才聞きよるごたるけれども、本当の話なんですね。それで子供さんが来なされて、もう高校にでも行きますとね、ちゃんともう仲裁ができるんですね。そいでおとっちゃんが悪かかおかっちゃんが悪かか、ようと、仲裁に入った子供にそのお母さんが言うね。
おっかさんが悪かなら私がいつでん出て行くと、これだけ私はしたつばのというわけだったでしょうけれどもね。だから本当にその喜びと言うたらですね、それこそね喜び続けにゃ。有難いと言いだしたらね、有難い、もう全てが有難い有難いで受け抜かなければ駄目なのですね。それこそ「パパとママどちらが好きか」と問われたら、どちらも好きだと答えれる信心にならなけりゃいかんわけですね。 皆さんこういう意味の事は私はいつも、それこそ口を酸うして言うておることなのですからね。
皆さんがまあうすらぱっとして聞きよりなさるばってかね、これを一つ本気で行じる気になってご覧なさいね。そりゃあまいこともありゃ苦いこともある。それこそ降ることもありゃ照ることもある。その両方をですね、本気で有難いと受けるという腹を決めると言う事なんだ信心とはね。 その、おかげは頂かしてもらいその事が受けれれるようになったという事が信心が分かった神様が分かったという事なんだね。神様が分かったと言う事はね、全てがね神愛、全てがおかげと分からしてもろうね。
半分のところまでは有難かったけれども、ちょっと辛い事に言われたら、ここで腹が立って大喧嘩せなならんと言う事では、まだ修行不足だと、一つ思うてね、「よし馬鹿と言われても阿呆と言われても、そこんところがどっこい成程信心のない主人の事であるから、神様、私は正直に有難い事を有難いと言うておるのですけれども、信心のない主人にしてみれば、信心がないのでございますから、成程そうもあろう」と。
主人の事を成り代わってお詫びをするような心持ちになって、馬鹿と言われ、ひとつだん叩かれたっちゃそこをですよね、有り難く受けていくという、いわゆる生活態度です。ね。どうでしょうかね、なでたりさすられたりする時には、神様っちゃ有難い。そりゃ有難いと言うてね、それこそ神様でなからなければならんように言うけれども、ちょっと難儀な事が起こってくる困った事が起こってくるとね、どうしたことじゃろうかと言う。そこに不平がある、不足があるね。
これではね皆さん、神様が本当に分かったと言う事ではないのです。信心が分かったという事、神様が分かるという事はね。それこそ、パパもママも一様に有難いんだとね、一様に好きだという、そこまでお互いの信心がなった時に、親じゃ子じゃという関わり合い。いうなら、天地の親神様と氏子との間の関わり合い。そこから交流するものが本当の親子の関係を持って、より本当の意味においてのあいよかけよの働きが成されてくるわけですね。私は昨日の朝の御理解を頂かしてもらいよってね。
はあ本当に長年信心さしてもらいよってこう言うとこが分かってなかったと思うた。これはもう教団全体がそうじゃなかろうかと言う様な感じがしたのはね、いわゆる立教神伝ですね。金光教が天地の親神様から教祖生神金光大神に神頼みがあった。世の中には難儀な氏子が沢山ある。どうぞその方の信心によって取次ぎ助けてやってくれという神頼みがあった。そして結果においては、親の事は子が頼み、子の事は親が頼み、あいよかけよで立ち行く世界の顕現を願っておられる。最後にそう締めくくってある。
あいよかけよで立ち行く楽しみ、あいよかけよで助かり合うていく信心。神様と氏子。いわゆる、神と人とが一緒に栄えていこうという信心。信心共栄の実を上げていこうという、そこに金光教が、金光教としての働きをです、いよいよ成していかなければ、その天地の親神様の御心に反することになるのだ。その天地の親神様の神頼みがです、金光大神の御取次の働きが、そこんところに成就してまいりませんと金光教の信心をさせて頂いておる、金光教が生まれたという値打ちがないことです。
先日から、若先生を先頭に立教形式がございましたかね、の御大祭を拝まして頂いた、そこの先生方が、教師の資格を頂く式もございました。それで私と若先生とで参りました。それで、あの辺が大変ごひれいの輝く、教会。またはいろんな会があるんです。中にみちてる会という会がある。さとしょうあの近所にあります。さとしょうという所も大変なとこ。そことなんかある人と関係があるらしいですね。
そのみちてる会という会があるということは私共も神愛会の当初の時分から聞いておりました。大変人が、もう沢山の人が助かるという事を聞いて、ですから若先生もそれに一遍寄ってみたいと言うて、行きがけに時間がありましたから、随分探してからまいりました。ところが小さいお広前で、たいした事はないと思うていたところが、実は上の方に新しい祭場が、御広前ができているんだと言う事をまた聞いて、翌日またそちらへまいりました。先生はあれは2、3年前でしたかね、亡くなっておられた。
その後を奥様が継いで、やっぱり見事たるごひれいを、立てておられるという、どうしても教会になれない。だから教師にはならんでいい、教会にはならんでええ、わしはお道のさかもと流、(ぎんのう)を目指すのだと、まあたいへんな元気な先生だったらしいですね。初めて、小さいお書物、初めてできたという、そのお書物、先生のお話を、そこの方が集めてある、それを、若先生が頂いてから帰っております。
まあそりゃ聞きます通り全然やっぱり、それこそ、盲が開いたり、ちんばが立ったり、ちょうど合楽、あの、椛目の時代に今日もちょうど福岡の松岡さん達が親子で、お参りして来ておりましたが。ちょうど高芝さん、それから綾部さん、高芝さん、おる所でです、高芝さんがお導き、本当にあの時がもしなかったら、今日の松岡はないね。あの時病院でレントゲンに掛った所、そこんところに、空気銃の玉が入っとね。それ病院に行きよるという所は、高芝さんがバスから下りらっしゃったそうですね。
そげなこつ言わんな一遍合楽にお参りして、そんで何てんお父さんが務めておるからいっぺんむつやに行って、もうそれこそ、もうどうしてむちゃくちゃなこと言う人じゃろうかとあの時思うたけれども、あの時降ろされて、石井の、いわゆるあちらの奥さんに導かれて椛目にお参りをさして頂いて、そしたら先生が言わっしゃった事はどう言う事かと言うとね、楽になれば良かろうがなとおっしゃった。楽になるようにお願いするよと言う事であった。けれども決して楽じゃなかった。
もうそれこそ何日間というのは、もううずき通しだったね。それから毎日お参りする時に、今日はその本部の人も参って来てました。それからね本当に例えば腹が決まったのが、5日目か6日目だった。これはもうどうしても神様に一心にお縋りしておかげを頂こうという気になった、晩にお夢を頂いた。誰かが手術をして下さって、まここに玉ばこれじゃろうがっちゅうて手のひらに上げて見せて下さった。それっきり痛みが止まって気分が良うなった。まだその時17、8の娘さんでした、奇麗な娘さんでしたが。今はもう3人のお母さんになっておるね。
そういう時のこの人の信心の勢いといやあ、今のあの弟がこれがあの腕がどうかしとってからガチャっとこう折ってからですね、ここに落ちたんだそうですね。こう脱臼したというのですか。それから退場した時にですね、医者に連れて行った時に、その18の娘がとうとうその事を、これあ、そんな事もあったねちゅうてから、もう本当にそげな事言うてからできん、私がおうちから山からこのバス道路まで出て来るのに1里くらい。歩いて来にゃん山ん中から。
それをその子供ばおんぶしてからですね、あの椛目に参って来た。そしたら親先生が何か見せちゃったけれども、そんなら一緒にお願いしようと言うて、奥さんまで御祈念して下さった。ほいでもう一生懸命、自分がそうしておかげを頂いた後だもんですから、もう一生懸命に御祈念をさして帰ったらね、もうとにかく奥様が座ってござるここんところにバチバチおいさみがあった肩に。
ほいでこれはおかげ頂くばいじゅんこさんちゅうて帰らして頂いたら、ちょうど御祈念をして頂いておる時間にはまったはまったちゅうてから、おかげ頂いたというようなです、話をここでしてるわけです。もう本当に一つのもうおかげ頂けるという執念というのはすさまじいことだと。まあだ18の娘が、それに医者に連れて行くとば、こっちに連れて来てからおかげ頂いた。といったような話をしておりましたらね、やはりそのみちてる教会もそのような働き、そりゃあ大変な、まあおかげを頂いておる。
そいでもう教団とかは問題じゃない。人が助かりすればよいね。その信者さんが並んでよかともう鼻息が荒い。で私は教団の坂本竜馬を志に目指しておるのだと言うて、頑張っておられた。銀座の教会の手続で、おかげを頂いておられる。だから玉水の湯川先生なんかを、よく知っておらして、なかなか学問をなさっておられる。宗教いろんなほかの宗教、キリスト教とか生長の家とか、仏教なんかの例を引用してからの、その話をなさっておられますがね、なかなかその元気のよい先生だったとこう思います。
それでこんど若先生がまいりましたから、合楽のことを是非一遍、あの主人も申しました。九州に合楽あの、まあ合楽に一遍行ってみたい。親先生に会いたいというておりましたけれども、私は(?)ができた私は是非一遍おじゃましたいと言う様な事だったそうですがね、その時にその頂いて帰って来ておる、お書物なんです。私が例えば、前半に申しましたことね。本当にパパとママがどちらも一様に有難いんだ、好きだと言う事になってこなければ、信心が分かった。
信心が神様が分かったとは言えないと言う事を申しましたね、前半に。なでさすりされたり、自分の思うようにおかげを頂いた時だけは有難い勿体無いと言うけれど、それとは反対に、それこそ激しく叩かれる様な事があると、これほど信心するのにと言うなら、もう信心は分かっとらんと。神様を分かっていないことだと言う事をですね、当時、今でもそうだと思いますけれども、ね、日本一を自負しておられた、今のみちてる会の親の、親にあたられるわけになりますが、その湯川先生のことが書いてある。
そして私が皆さんに聞いて頂いた様な事をです、もう信心の決め手としておっしゃっておられます。だから私が言いよることがね、嘘じゃない本当なんだと。だからそれを本気で取り組む姿勢を作らしてもろうて、おかげを頂こうという姿勢を作らなければいけない。そこんところを少しばかり読んでみましょうね。それこそ家の子のような名前をします、他所の娘さんがおいしいと言うた。まあそりゃあこら(はんて?)こっちが飲むのと(みそとこのんままじゃろう?)というね。(笑い)
まあとにかくあのね、どうぞ大阪の玉水に湯川先生がそうおっしゃっておられるということを一つ皆さんも心に入れておかげ頂いてもらいたいと思うんです。「玉水の先生は『自分の都合の良いことを喜び、都合の悪いことを不足に言うのはまだ本当の神様のおぼしめしが分からん』と言われた。『都合の悪いことも喜ぶようになれば一切が自由になる。一切合切が喜べれば、一切合切が自由になる金光教は生きながら極楽じゃ』と」どうで皆さん、一切合切がおかげにるという信心でなければだめなんです。一生懸命にお願いをした、目が開いた。一生懸命お願した、ちんばが立った。
このことをお取次頂いたら試験が合格した。病気がなおったと言う様な事ではね、まあだ神様が分かったと言う事じゃないんだと。一切合切が有難いと分からしてもらう。一切合切が有難いと分からしてもらうね。一切合切が自由になる。(もん)ともいいましょうね。どうぞ、あの玉水の湯川先生がおっしゃると思うて聞いて下さい。「自分の都合の良いことを喜び、都合の悪いことを不足に言うのは、まだ本当の神様のおぼしめしが分からん」と言われた。
「都合の悪いことも喜ぶようになれば一切が自由になる。」 都合の悪いことでもやはり本当に喜べば、一切が自由になる。一切合切が喜べれば一切合切が自由になる。金光教は生きながら極楽に行ける道だということ。ここんところをいつも私は申しますね。この世で極楽を開いとかなきゃあの世行ってどうして極楽があるかと私は言うね。この世であれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようにならせてもらって、初めて、私は極楽入りができるんだと言うね。
私共がこれは有難い。まあ実を言うたら有難い事ですらね、まあだ有難いと気付かんようなことがありませんだろうか。信心はしていれば目に見えるおかげよりも目に見えぬおかげが多いとおっしゃるがね。その信心が不足であるために、目に見えないことがですね、まあだおかげを頂き足らんごとある思いばっかりして折る様な事はなかろうかと言う事なんですね。 一切合切がね、おかげと分からして頂いた時に初めて、お父さんも好きならお母さんも好きということになるのですね。
玉水の湯川先生はここんところをですね、またこういうふうに言っておられる。神様と私共の間に誰でも、そらパイプが繋がっておるんだとこう、パイプで繋がれておる。それを私共は不平不足を言う、わがままを言う、意地の悪いこと根性の悪いことを言う。汚いことをする言う。それがねそのパイプを詰めてしまうんだとね。ですからおかげを頂くためにはもう不平不足なんか言うちゃならんと言う事が分かります。パイプが詰まるとおっしゃる。ふんづまりするごたるこってね。
ですから私共の喜びというものは、その詰まったものを溶かしていく働きがあるという。真に有難いと思う心をすぐにみかげのはじめ。これを一変に溶かしてしまう。その真に有難いを目指さして頂くことのためには、有り難くはなかってもよくよく御神意を悟らしてもろうてね、そこんところに不平不足だんじゃない、有難い勿体無いと分からして頂く信心にならにゃいけん。私はもうこれで立派に心の美しい自分だと思うておる人がね、一度自分の心の中をいっぺん忠実に眺めてごらんなさい。
本気で神様の目から御覧になったと思う、ような思いで見てご覧なさい。もう本当に慄然とするごとある。汚い心が。そういう汚い心がパイプの中に詰まり詰まって、だんだん穴が小さなってしまう。限りなく美しゅうなろう、限りなく美しゅうなりましょうやと家族中の者がね、合い言葉のように言うて、一つ本気で美しゅうなることに努めなきゃならんのだけれど、それがなかなかできない。私自身今朝お夢を頂いた。もう本当に脇の下から汗の出る思いがした。というのはこういうお夢である。
何かこうせり箱にもちやら万十ゃらが、あぁ御仏事か御祝儀があった時の、まああまり物のごたる、まんじゅうやら、こういろいろいれてあるいっぱい。それを私が頂いて帰りよる。ところがその、せり箱ふたが無いから、新聞か何か持って。上にこうやってふたをしとるで、さげていかれるごと何か紐を下さいと私は言いましたね。そしたらね、そのそのしで紐というのが今までに見た事のないほど立派な美しいしで紐だった。引いてみたらとても強いしで紐である。ほうこげなしで紐が。
まあちっとばかりもうていくならこりゃあ、何か役に立つばいと思ちから、もうそのせり箱を一重か三重にまいて、十文字にてんでもう、こうこうやって巻よる。でこりゃもうせっかくただで貰うとじゃけんうんともろうちからと思ちから、(?)こう切ってから、(?)目をして目が覚めた。もう本当にね(笑い)。私はもう日本一有難い私にならにゃならんということは、日本一美しい私にならにゃならんと言う事なんですよね。そういう願いを持っておる私がです。
心の底にはそういう汚いものがあると言う事をね、夢の中でお知らせを頂いて、本当に慄然とするね。それこそこれがまんざら子供でん食べんばのと言うごたるまんじゅうなんです。ね。こん位ばかりのまんじゅう、があるでしょうが。それを、やっぱり貰うて来た。しかも、このしで紐はただじゃけんち思うちからてんでもううちかえ使うとに こうやって巻付けちから、荷造りしておる。(笑い)
まあ何と汚いことだろうかとね。私は今日、3時、高橋さんがあちらを見てくれと言いますから、ちょっとあの一緒に見せて頂くとちょうど3時のお茶でした。ざるそばどんができておりましたから、ちょうど職人さん達が8人おった。そしてざるそばが出ておったそいで私、こっちの方はコーヒーを頂きますけん、若い方達はこっち来てから、コーヒーをかけておる、コーヒーを飲んで下さいと。
本に5人あの、ちょうどそこのところへ、ちょうどあのお供えしてあった果物が下がった。バナナが沢山下ってある。そしてねこれはもう、あの方達に食べてもろうたらどうかと、もうトラの顔んごとなって黒かつと黄かつとこうこうなっとる(笑い)ね。そいで私はもう瞬間に、その今朝のお夢を頂いてね、もう悪かもんじゃけん片づけてもらうちゅうごとあることを言いよる事を、はっと思うてからね、昨日かおととい頂いていた奇麗な一ふさを頂いていた。
ほんなことこれは、これが汚い心だなとこう思いましてね、本当に例えば出し物一つでん、もう腐るけん食べちくれんのち言うごたることじゃあいけんと私は思うた。これはおいしかですけん頂きなさいちゅうのではない。もう今朝のお知らせ頂いとらんならです、おそらくあの虎ん皮んごたるとば、これは中は立派ばのち言うちから出したに違いない。原今朝頂いとったけん、ならこっちん方ば、あげなさいと言うて、数えたところがちょっきり8本だった。
もう神様が今朝頂いたことをもう、こうやって試して下さっておるなあと思うたらびっくりしました本当に。成程私は虎ん皮んごたるとを見たら、中は立派だった。だからこれは家で食べれば良かと私は思うたね。けれどもその8本なこら立派な買うて来たばっかのごとあるね。だからこれはもう後からととけ。して悪かつを出しとけて。もうほんにまあ、人間の汚い心がね無かごとあるけれども、奥の奥にはあると言う事ね。ですからほんなこつひとつ美しゅうならせて頂くことにですね。
焦点を置いとるようであっても、分からないところだらけなんですね。その汚いものがあるとです、今日、私が言います、ね、有難いたら有難いけれどもです、有り難くないことはもう有り難くないで向こうの方へ押しやってしもうて、不平不住不足を言うのです。そうすっと神様との間、のパイプが詰まってしまうのですね。不平おかげ頂かならんと思うならどげん歯を食い縛るようなことがあってもです、金光様金光様でね、それを不平不足を出さんだけぐらいの努力はしなければいけんです。
半分は有難いけれども、半分とうとう、そのお前が出て行けちゅうごたることになって来る様な事ではね、いけないんです。本気で一つね、パパとママどちらが好きかと言われたら、もうどちらも好きだと。熱いことも有難いなら寒いこともまた有難いんだと、そういう姿勢を本気で作らせて頂いてね、溜まっておるパイプの中をすんとスポスポするごとあるふうにやせて頂く稽古をさして頂いて、いわゆる神様のご都合、が分からしてもらえ、ね、神様がこれに、まあ至る所に、書いておられるようなね、無限大。
もう無限大ということを言っておられますね。その無尽蔵である、無尽蔵に頂きよる無一物の中からでもそういう心の状態になったら、「要る程に風かもてくる、木の葉かな」という詩もあろうがね。そういうおかげが受けられるんだ。しかも限りなく頂かれるんだと力説しておられます、このみちてる会の会長ね。なら私はそれを皆さんに一生懸命言っておるわけです。けれども今日はですね。
これはもう絶対のそれこそまあ日本一の大先生であるところの湯川先生もそう言うておられた。それが湯川先生の信心の、まあ真髄では、そこだと言う様な事が書いてあったね。いわゆる一切合切が有り難く頂けるところに一切合切がおかげになって金光教の道は、いわゆる極楽の道がここから開けてくると言う事を言うておられるね。私共がねもうこう言う事をいっちょん(?)させればよいと言った様なけちな考えではなくて、本気で神様の心を分からして頂いて、おかげを頂いていく。
本気で神様まかせにならして頂いて、氏子も神様まかせなら神様も氏子まかせになると。おおせられますからというほどしのおかげを頂かにゃならんね。ご理念がある。そういう信心をです、私は「あいよかけよ」というんだと思います。あっちから田植えの加勢に来てもろうたけんで、こっちもいかじゃこてというごたる程度のことを今までは「あいよかけよ」と言うておったね。
お互いちゅうごとある限る。そげなことじゃなか。もう本当に自分の、づうからです、一切合切を有り難く頂かせてもらいよるまかせ方ね。そこに神様も氏子まかせになると仰せられるというおかげが頂かれる。これがね神も立ち行く氏子も立ち行くというおかげ。あいよかけよで立ち行こうじゃないかと仰せられるおかげは、そういうおかげを持ってね、立教神伝にあるところの、あいよかけよの道はそこから開けてくるのだと言う事を改めて思わして頂くのでございます。
どうぞ。